店主の机 - 内町のこと、ギャラリーのことなど店主の徒然帖

「玉藻よし」から「玉藻」のルーツを考える

◆現在の地図で屋島湾とある高松市の北側の海は、中世には讃岐国香東郡箆原玉藻浦と
呼ばれていました。  
玉藻浦は、いま、高松市とその前の女木島・男木島を結ぶ
フェリーの「めおん」が行き来している航路一帯です。
今、私たちが乗っている「めおん」の上からは、目線が高いので残念ながら陽光が反射して、海面しか見えませんが、小舟の船縁に目線を下げると、玉藻浦の一帯の白い砂地と林立するアマモが見ます。
中学生の頃、私は、毎年、女木島へ来て海水浴をしていました。
屋島の方へ漕ぎ出したボートから海の中を見ると、光の波紋が海底の白砂に映って広がり、そこから「アマモ」が林立して、その中をキスやベラやイカの小魚が出入りしていました。

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◆これは白鳳時代の天武天皇と持統天皇の宮廷歌人であった柿本人麻呂の長歌です。
「玉藻よし・・」の長歌の「玉藻」は、地名となって大正・昭和まで残って来ました。
私は子供のころから、この長歌を文字面から解釈しようとすると違和感を覚えてきました。
 ・人麻呂が見た神がらの国や、国がらの国は、どのような国なのか。なぜ神がらなのか。
 ・前半の明るい詞と・後半の寂しい詞を並べた人麻呂の意図は。
 ・沙弥島で終焉を迎えた魂には、どのよう人びとが考えられるか。
 ・それが流刑を憐れむ自分自身とすれば、歌聖といわれる雄大で深淵な他の詩を詠んだ人麻呂という強靭な人間と対比すると、あまりにもセンチメンタルすぎるのでは。

◆私は、奈良市で定年を迎えて、会社の同期生と朝霧会という里山を歩く会を作りました。
月1回の里山歩きを交代で計画して奈良盆地から見える大和青垣の山を全て登ること目標にしました。若草山へ登った時のことです。
朝日が出て奈良盆地の朝霧が消えるとともに、昔から神様が座すと言われる二上山や大和三山が、「お椀を伏せたような姿」で顔を出してきました。
私が子供の頃に、グミやクリを取りに行った六つ目山や白山とそっくりです。

◆ご覧ください。「めおん」からも高松市の西側に「お椀を伏せたような」六つ目山や伽藍山が見えます。ビルが建っていなかった人麻呂の頃には、お椀を伏せたような仏生山五山も見えたでしょう。高鉢山・堤山・飯野山・爺神山・九十九山と讃岐七富士が続きます。
今、私たちが、東京と大阪を行き来するとき新幹線の車窓から富士山を見るのと同じです。当時、柿本人麻呂は、飛鳥と太宰府を行き来するたびに、乗っていた舟縁の低い目線から、次々と現れる、「神様が座す」三輪山や二上山や大和三山と同じような「お椀を伏せたような形をした」讃岐の山々を見て、「讃岐の国は神柄か」と愛でたのに違いありません。

◆このことに気が付くと、アマモが玉藻と詠まれなければならなかった必然も分かります。
・神社には「生垣」が必要ですが、神社の生垣は「玉垣」と呼ばれます。
・神様が座す沢山の讃岐の山々には讃岐を一つの神社と見做す巨大玉垣が必要です。
・船縁の低い目線から、ふと海中を見ると、白砂から「アマモ」が林立して居ます。
・讃岐平野は扇状地ゆえ、この一帯の海低は砂地で、
沢山の神々の依り代のある山がある讃岐の国は全体が白砂から生えるアマモに囲まれています。巨大生垣です。

◆神柄の讃岐を囲むこの「アマモの垣」は「玉アマ藻(TAMAAMAMO)の玉垣」でなくてはならない。神がらの讃岐の国が「玉藻よし」(TAMAMO)へと繋がった瞬間でした。
「玉藻よし」の枕詞を発明し、これを発句に、讃岐の国の長歌の骨格が見えてきました。

◆後段へ進みます。讃岐平野には2つの古城があります。東の屋嶋城と西の城山城です。
両古城は、天智天皇が、20年~30年前の白村江の戦(AD663)のあとに、瀬戸内海の防衛線として建設したものです。唐と新羅の連合軍との戦いは、現代の第二次世界大戦に匹敵する敗戦でした。800艙の船が瀬戸内海を通って出兵し、大半が失なわれ、傷ついて帰還した残りの舟には、荒ぶる沙弥島の沖で力尽きたのもありました。それは同じこの海でした。

◆天武天皇と持統天皇によって、唐と新羅の平和外交が回復し、内政も整い、文化面も
発展したので、国をあげて戦没者の慰霊を捜索して、弔いをしなければならない。
人麻呂は、従軍して帰還しなかった友人や肉親とその家族に想いをはせて舟を進めました。

◆飛鳥・白鳳時代は文献が少ないので仮設が許される部分が少々あります。
「酒舟石は斉明天皇が麻薬をすり潰して儀式をしたのでは」とした松本清張の説も、
崖下から第二亀石が発見されるまでは有力な仮説でした。
もし、私にも仮説が許されるなら、「玉藻よし・・」の長歌の大意をこのように捉えます。

人麻呂のもう一つの短歌に「近江の海 夕凪千鳥 汝が鳴けば 心もしおに 古おもう」
(琵琶湖の磯辺を 弱々しく鳴きながら歩く千鳥を見ると、昔の近江朝の頃に 白村江で戦死した知人や親族が偲ばれて 心が痛みます)があります。相通ずるものを感じます。
( H30、4,9、 別所治親)
柿本朝臣人麻呂
作歌一首
玉藻よし 讃岐の国は 国がらか 見れども飽きぬ 神がらか ここだ貴き 天地 
月日と共に 足り行かむ

神の御面と 漕ぎ来る 仲の湊ゆ 船浮けて 我が漕ぎ来れば 時つ風 雲居に吹くに
沖見れば とゐ波立ち 辺見れば 白波さわぐ いざなとり 海を怖れみ 行く舟の
梶引き折りて をちこちの
島は多けど 名ぐわし
沙岑の島の 荒磯緬に 籠りて
みれば 波の音しげき浜辺を 
しきたえの 枕になして 
荒床に ころ臥す君が  
家知らば 行きても告げむ 妻しらば 来も問わましを  
玉鉾の 道だに知らず おほほしく 待ちか恋ふらむ
愛しき妻らは 『万葉集』 
 

青垣に囲われた都の大和の国のように、玉藻の玉垣に囲われた讃岐の国は 沢山の千早振る神々に守られ、民は穏やかに日々満ち足りて暮らしています。これは、天武天皇と持統天皇が内外共に良い政をされて復興した賜ものです。

人麻呂は今、玉藻の上の鏡のような海面を太宰府へ旅していますが、神が荒振った、ふた昔前の天智帝の御代には、白波が立つように政治がみだれ、朝鮮から帰る舟は梶が折れて沙弥島を超えられず、夫や友人が荒磯の海中で、石を枕に漂っています。平和を取り戻した今、遺骨を探して妻子に届け、魂を慰霊しなければと、心が痛みます。

By tamamo | Category : 未分類 | Leave a comment
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